法人概要

なひろ九十年の歩み

激動の時代を乗り越えて現在に・・・「変わりゆく施設の姿」

▼ 1929年(昭和4年) 心を痛めたひとりの女性

株価大暴落による世界大恐慌の時代。日本では緊縮財政が引かれ、失業や貧困が社会現象化し、公園や駅で野宿する者や一家心中する家族が巷に溢れた。親を失った子どもたちは、成す術のない国情で放置され、浮浪児の群れに身を投じるか、野垂れ死にするしか道が無かった。
そんな姿を毎日見ていた山田よ志ゑ(当時27歳)は深く心を痛め、迷い子を引き取ってご飯を与え、一つの布団で夜を過ごすようになった。その話を伝え聞いた人々が1人また1人と子どもを引き連れて、よ志ゑの元を訪れた。瞬く間に増えていく子どもたちと一緒に暮らせる場所が必要となり、家族の協力を得て千種区に「子どもの家」を作った。

▼ 1934年(昭和9年) 生涯の協力者

「子どもの家」で奮闘しているよ志ゑに、心を打たれた長谷川秀和というひとりの男性が現れ、この年二人は結婚した。
日本経済は相変わらずで、「子どもの家」に預けられる子どもたちは増えていった。秀和の実家の資金援助が得られ、昭和区(現在の場所)に移り「名広愛児園家庭寮」として児童養護施設と保育園を建設し、本格的に事業を始めた。誰もが貧しい時代だったので、衣食住の提供で職員として働いてくれる人たちが居り、お金は出ていくばかりではあったがどうにか成り立っていた。

▼ 1941年(昭和16年) 大東亜戦争により疎開と休園

大東亜戦争の戦火は名古屋にも広がり、1944年に児童養護施設は現在の稲沢市に疎開、保育園は無期限の休園となった。

▼ 1945年(昭和20年) 敗戦による孤児の激増

戦争終結に伴い保育園が再開し、児童養護施設も疎開先から復帰したが、戦災孤児や浮浪児の収容が始まり、施設は入りきれない程の子どもたちで溢れかえった。この頃は食べ物も手に入らなかったため、現在の尾張旭市に荒れ地を借り、みんなで協力して開墾し自給自足を行った。その後この場所は、姉妹法人の「松の寮(現在の大和荘)」となる。
職員や子どもたちは、毎日を生きることだけで精一杯だったが、お互いに手を差しのべ合い、行いはお天道様が見張り役となって、苦楽を共にしながら寄り添い生活していた。物こそ無いが、施設内は生きる力に満ち溢れていた。
この翌年の1946年11月3日に日本国憲法が公布される。

▼ 1951年(昭和26年) 福祉への法整備

社会福祉に関わる法律が整備され、社会福祉法人の制度化が進められた。
この頃から混迷していた日本経済も息を吹き返し、高度成長期に突入する。
制度により、施設の子どもたちの生活は改善されていったが、個人で始めた福祉はあくまでも慈善事業、施設運営もそこで働く者もやりたい人が自力で・・・という考えが根強く、公的資金が投入されている公の施設と比べて大きな格差があった。業界の行く末を憂いたよ志ゑは、同じような志で始めた他の個人事業者で組織する団体の人たちと、職員の賃金や運営費における公私格差是正の運動を始めた。

▼ 1959年(昭和34年) 園舎の建替え

空襲の戦火に何とか耐えた木造園舎だったが、所々に受けた焼夷弾の損傷が激しく、施設は子どもの数が増える状況で、建て替えが急がれた。当時は公からの補助が殆ど受けられなかったため、秀和が親から相続された私財と多額な借り入れでどうにか建替えに漕ぎ着けた。この時の借入金はその後20年にわたって重い負担となってのしかかった。

▼ 1966年(昭和41年) 集団赤痢の発生

1964年に東京オリンピックが開催され日本は先進国となった。1970年には大阪万博、大きなイベントに伴い新幹線や高速道路も整備され、その特需により日本経済は上昇していった。
経済が着々と成長している中、傍らでは不衛生な環境で生活している子どもも少なくなかった。施設への入所前検査が厳格に行われない環境下で施設内に赤痢が発生。発生源や感染経路が不明のまま職員と子どもたち総勢110名に集団感染。保育園児の家族にも感染は広がり、仕事ができない親御様が続出した。よ志ゑは私物を売り払ったお金を見舞金に充て、謝罪行脚の日々を送った。

▼ 1971年(昭和46年) 流行性肝炎の発生

児童養護施設の子どもが長期間高熱を出し、医師により激性肝炎の疑いが濃厚と診断された。対策チームが組まれて施設内の大消毒、水質検査や血液検査を行った上で、感染者を隔離したが原因が特定できず、その後同じ症状で倒れる子どもが続出。感染は在園児のおよそ半数に広がってしまった。当時は感染システムが解明しておらず、効果的な予防法や治療法もなかったため、重篤者は病院でも受け入れてもらえず、感染者が出ていなかった保育園との間に高い塀を築き、児童養護施設は隔離病棟と化した。職員は病人の介抱と検査や消毒の毎日で、半ば野戦病院の様相であった。保育園は嘱託医から休園を命じられたが、保育士への給料を止める事は出来ず、秀和とよ志ゑは金作に翻弄した。病気は名古屋大学の医療チームが治療を引き受け、どうにか鎮静化に向かった。その後新たな患者も確認されず、ほぼ正常化していたが、保育園の再開は嘱託医からの許しが得られなかった。職員の給与が出ていく一方で保育料は入って来ず、資金も底を着き、手立てがないまま嘱託医の許しを待つ日々が続いた。実情を伝えるために何度も嘱託医に足を運び、破綻寸前のところでやっと禁足が解かれた。

▼ 1974年(昭和49年) 秀和とよ志ゑが死去

この年に創立者のよ志ゑが死去。その半年後、よ志ゑの後を追うように秀和がこの世を去った。理事長には長男である正が後任となり、実質的な運営は当時教員をしていた長女園子(当時26歳)に委ねられた。
善意で始めた事業なので慈善事業と言えばそうかもしれない。しかし今のままでは今後何かが起こればたちまち破綻してしまうのは目に見えている。もし破綻したら、子供たちは元より職員の職場も失われてしまう上、何よりも両親が心血を注いできた行いの意味が歪んでしまう。窮地を目の当たりにしてきた園子は、事業継承に大きな不安を感じ、手探りで経営しながら、先人が始めた公私格差是正の運動にも注力していった。

▼ 1991年(昭和66年) 徐々に変わり始めた児童福祉の形

オイルショックは経験したものの日本経済は高度成長を続けバブル期に突入。その狂乱も1993年に終止符が打たれ、失われた20年に入っていく。
戦前から戦後にかけては、極貧や戦災により親を失った子どもたちの保護が殆どであったが、この頃から母子家庭や親の事情により養育できない子どもの受け入れが増え始め、児童養護施設の様態も少しずつ変わっていった。
運動の甲斐あって施設職員の処遇は改善していったが、運営母体に対する考え方は旧態依然のままであったため、園子は私財を取り崩してやりくりをしていた。

▼ 2008年(平成20年) 子どもたちと職員の処遇が改善

バブル崩壊により暗雲が立ち込めていた中、1995年に阪神淡路大震災が発生し6500人の命が奪われた。日本経済は相変わらず停滞したままだったが、そんな折にリーマンショックが世界経済を襲った。この頃から、第二次ベビーブームを機に減り始めた人口が注目され、少子高齢化社会が囁かれるようになった。
児童養護施設の子どもたちの生活環境は、厚労省の指導によりこれまでの集団型から小規模化へと改善され、職員の処遇も公私格差がなくなり、先人たちの活動が実を結んだ。

▼ 現在(平成29年) 救貧から支援に

リーマンショック以降は、かつてない景気低迷で多くの企業が倒産。混とんとしていた日本に2011年東日本大震災が発生。映画で見るような津波の光景が現実となって東北沿岸に襲いかかった。街全体を飲み込み原子力発電所も崩壊した。死者15000名という大惨事に加え、原発の放射能漏れという二次災害も発生し、被災者の救援は今もなお続いている。
先の見えない日本経済だったが、安倍内閣の政策により2013年頃から少しずつ光が見え始め、現在はリーマンショック以前の景気に戻っている。
児童福祉はというと、父子や母子家庭の増加と並行して、育児放棄や児童虐待が社会問題化し、児童福祉は貧する子どもを救う事業から子どもの養育の一助となる事業に変わっている。特に児童養護施設は更なる小規模化による一般家庭のような生活スタイルを厚労省が進めているが、労働者の権利がクローズアップされる現代において、配置が許される職員数と労働法との狭間で実現が難しい現実がある。
当施設で他の子どもたちと一緒に育ち、よ志ゑの後を継いで運営に尽くしてきた園子も高齢となり、娘婿である古澤浩司が2016年に業務執行理事として就任し、現在後継を担っている。
現在は国や名古屋市からの補助金が充実し、子どもは衣食住が確保され不自由なく生活でき、職員は給与が保障され安心して働ける職場になった。企業の本社と言える運営母体への理解も、ここ数年で一部認めらるようになったが、自己資金と多くの方々のご協力があって、現在の「名広愛児園」は運営されている。


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